キャリア教育ヒントボックス

僕がまだ見たことのない小説を書きたい
作家 井上夢人さん

一度ページをめくったら、昼も夜も分からぬほど没頭し、気が付いたら徹夜……そんな本に出会ったことはあるだろうか。彼の作品は、まさに「徹夜本」のオンパレード。リズミカルな文章は導入から読者をとらえ、最後まで決して離さない。まだ雪の残る山梨県は清里に、作家・井上夢人さんを訪ねた。

器に合わせて最高においしい料理を

井上さんの作品は、読み始めた途端に映像が浮かんでくるものが多い。例えば、嗅覚が異常発達し「匂いが見える」ようになってしまった主人公を描いた『オルファクトグラム』では、その視覚化された匂いの映像美と圧倒的な色彩の渦で頭が埋め尽くされる感覚に陥る。

しかし、その美しい映像を創造しているのは、実は読者なのだと井上さん。

「小説でしか描けないことを書きたいんですよ。読んでいる時にはすんなりと映像が広がるような小説でも、実際に映像化するとしたらとてつもなく難しいというような。簡単に映像化されたんじゃ面白くない(笑)」

紙で読むのに適した小説のカタチはすでに成熟していると井上さんは語る。

「小説でしか書けないことを書きたい」

が、パソコンのモニターで読むのに適した小説のカタチや、携帯電話で読むのに適した小説のカタチは、まだまだ発展途上だ。

井上さんはメディアを器に例える。

「料理に合わせた器を選ぶのではなく、器に合わせた料理を作って、そして最高に美味しそうに盛り付けたい」

カラダが弱くてしょっちゅう休んでました

父親は牧師、家は教会。そんな家庭に生まれた井上さんは、とにかくカラダの弱い子どもだった。
「よく、朝礼なんかで倒れちゃう子どもっているでしょう? それ、僕です」

起立性調節障害と診断され、学校を休むことも多く、勉強も運動も不得意。

それゆえ家では、母親が児童図書館で借りてきた本ばかり読んでいたと話す井上さん。おかげで、児童図書館の本をほとんど読んでしまったとか。

少年時代の思い出を語る井上さん

勉強は遅れがち、運動もできなくて、何をやっても不器用。

そんな井上さんが自分に自信を持てたきっかけは、「少年合唱団」への入団だった。

声が高かった井上さんは、小学4年から6年まで在籍していた合唱団で、ボーイソプラノの一番高いパートを担当していた。いつの間にか歌うことが好きになっていた。

「でも、作文は大キライでした」

のちの江戸川乱歩賞作家は、作文嫌いの子どもだった。

THE BEATLES …僕にとっては彼らが聖書

中学1年の夏休み、学校では観賞を禁じられていたにもかかわらず、悪友に誘われて観に行った映画が井上さんを変えた。

その映画のタイトルは『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』。

女の子がいっぱいで総立ちの館内。黄色い歓声に呆然としている最中、不意に耳に届いた曲が『IF I FELL』。映画の帰りに即、シングルレコードを買い、文字通り、レコードが擦り切れるまで聴いたと言う井上さん。

それからはまさしくビートルズ漬け。おこづかいもお年玉もすべてビートルズにつぎ込み、ビートルズに関して知らないことがあるのが許せないと思うほど。ビートルズの記事があれば、漏らさず穴が開くほど読んで彼らの言葉を暗記。街中でも、「THE BEATLES」の文字に脊髄反射していたと笑う。

高校では友人とバンドを組み、井上さんはボーカルを担当。ビートルズに明け暮れた中学高校時代だった。

「僕にとって、今でも彼らの言葉は聖書なんです」

ビートルズにはなれない──音楽から映画の世界へ

書斎では複数台のパソコンを使い分ける

そんな井上さんの興味が、音楽から映画へと変化する事件があった。1967年、ビートルズのアルバム『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』を聴いたことによる衝撃がそれだ。

「こんなにスゴイんじゃ、かなうワケない、追いつけるワケない」

音楽と言えばビートルズ。彼らと同様になれるかなれないか。なれないのなら意味がないと感じ、バンドへの熱が冷めていったと井上さん。

「僕はとにかく飽きっぽい性格で、しかも不器用だから楽器もできないし、バンドもつまらなくなってしまった」

母親が洋画好きだったことも手伝って、幼い頃から映画に親しんでいた井上さんは、音楽から映画へと徐々に興味の対象を移していく。

旺文社主催の「学生文芸コンクール・シナリオ部門」に応募し、見事佳作入選を果たした井上さんは、「コレだ!」と手ごたえを感じたと言う。映画なら不器用でも作れるだろう、と。「将来は決まった」

映画に関しては、今につながるかもしれない面白いエピソードがある。

幼い頃、母親に手を引かれて観に行った洋画。字幕の文字が読めない井上さんのため、囁くように字幕を読み上げる母。そのうち、少しずつ読める文字が増えていく井上さんに、母は息子が読めないであろう文字だけを選び、断片的に読み上げるようになる。

井上さんは、自分が読める文字と、母親の読んでくれた断片的な文字とを頭の中で合体させ、その上で理解するという、難解なパズルを解くような処理をこなしていたのだ。