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みんなここに還ってくる
馬路村農業協同組合代表理事組合長 兼 馬路村観光協会長
東谷 望史(とうたに・もちふみ)さん

「ゆず」「村おこし」のキーワードでピンと来る方も多いだろう。
各種メディアでさまざまに取り上げられながらも、変わらずその元気を都会に、
そして各地の農山漁村へと発信し続けている馬路村を訪ねた。

栄えの森が絶望を生んだ

色付くゆず畑の中で。

色付くゆず畑の中で。我が子の成長を見守るような、優しいまなざし。
お嬢さんの名にも「柚」の字を込めた。

車窓から漂うゆずの香が馬路村への到着を告げる。訪れたのは11月初旬。まさにゆず収穫の最盛期である。
「8割がた色付いたら収穫するがよ」

そう教えてくれるのは、馬路村農協の東谷さん。並外れた情熱と行動力でこの村の推進力となってきたその人は、淡々とした口調と足取りで、急斜面に広がるゆず畑を案内してくれる。

四国は高知県東部の山あいに位置する馬路村。山迫る安田川沿いのわずかな土地に、肩寄せ合うように家々が並ぶ。

「この村には昔2つも営林署があってね、だから山村とゆうても、皆が給料もろうて暮らすことに慣れとったがよ」

村の面積の96%が山林であり、その4分の3を国有林が占め、かつては林業立村そのものの産業構造で成り立っていた。
それが、1960年代半ばに自由化された輸入木材に圧され、豊かな山林に支えられてきた村の経済は、その依存度の高さゆえ深い絶望の淵に立たされた。
「何しろこんな山ん中。どうしたって農地が狭いがやき、兼業がやっとなんよ」

本当は農業をやりたかったという東谷さんだが、村で農業を生業とすることの困難さは想像以上だった。高校卒業後、高知市内のスーパーマーケットへの就職が、社会人としての第一歩となる。

絶望が覚悟を生んだ

「村が危ない。生まれ育った村の暮らしが立ちゆかなくなる」

社会に出て3年、東谷さんは馬路村農協への転職という形で村に戻ることになる。そのころ、収入を林業だけに頼ることができなくなった村では、観光立村への取り組みと、特産物であるゆずの栽培奨励とが進められつつあった。
「農協でゆずの生産を奨励しだしたがは昭和40年以降のことやけど、村にはそのずっと前から、こじゃんと(とてもたくさん)ゆずの木があったがよ」

しかし青果としてのゆずは、作柄による市場価格の変動に大きく左右されるほか、運搬等、立地的に不利な馬路村が他のゆず産地と競争するのは難しい。

苦戦が続く中、ゆずの販売担当を任じられた東谷さん。ちょうど、村に戻って6年目を迎えようとしていた。
「ゆずのことは全部任せると言われたき。この村にはゆずしかない。何としてでも売ってやろうと思おた」

林業の「不」、立地の「不」、資金の「不」。そうして積み重なる「不」を打ち消す「不」「不退転」の思いは、東谷さんの胸から、やがて多くの村民に広がっていくことになる。

覚悟ががむしゃらを生んだ

ゆずの森加工場にて。
ゆずの森加工場にて。箱詰め作業や通販受付の様子を見学することができ、見学者が引きも切らず訪れる。

高齢化が進み、満足に手入れもされず、自らのトゲで表皮に傷がつきやすいゆずは、見た目も悪い。が、結果として無農薬で野性的 、香りもいい。となれば、その加工品に活路を。それが東谷さんの出した結論だった。

そうして生まれたのが、ゆずしょうゆ『ゆずの村』だ。当時大手メーカーが販売を開始し、人気を博するようになっていた「ポン酢しょうゆ」が市場を切り開いていた。
「ものを売るとき、それを売る市場があるかないかの違いは大きい。問題はそこから先の話やね」

売れなかった。高知県の一山村である馬路村の商品には、知名度がまったくなかったのだ。

「そのころはもうがむしゃらよ。京阪神地区の百貨店の催事には、片っ端から出店したもんね」

それでも売れない日々は続いた。催事への出張費用すらまかなえず、パートで生産に励んでくれた村のおばちゃんたちの期待にも応えられない。ついくじけそうになる東谷さんを支えたのは、やはり「このゆずを売るしかない」という強い思いだった。