キャリア教育ヒントボックス

想像が映像になる面白さ
NHKエデュケーショナル・プロデューサー 梶原祐理子(かじわら・ゆりこ)さん

テレビプロデューサー。その字面だけで華やかな印象が勝る。しかし、番組制作の全体を統括する任だけあって、その仕事内容は多岐にわたるという。プロデューサー業とは、そして求められる能力とは。

プロデューサーという仕事

梶原祐理子さん43歳。高1と中2の2人のお子さんがいる。

43歳。高1と中2の2人のお子さんがいる。
「子どもには、私が楽しく仕事をしている様子が伝わっているようです」

そもそもプロデューサーとは何をする人なのか。そう尋ねると、梶原さんは分かりやすいようにと「教材作り」に例えてくれた。
「指導要領には、○学年の△科ではこういったことを教えなさいという指針がありますよね。それを子どもたちに教えるには、どんな内容の教材を、どういった手順で作ればいいのか。そこを考えるのがプロデューサーの仕事です」

どうすれば視聴者に伝わるのか。スタジオがいいのかロケがいいのか。スタッフは。予算はどれほど必要なのか。全体の構想を提案にまとめ、会議に諮る。

提案は所属部署を経て編成に進む。学校の授業で使う「学校放送番組」であれば、文科省や現場の先生方で構成する番組委員会にも諮る。そして、可能であれば試作番組を作り、それに対する一般からの反響、また、番組委員会や実際に授業で使ってみたらこうだったという現場の先生方の声なども聞いて、シリーズ番組に生かしていく。
「子どもたちの感想やワークシートをそのまま届けていただくこともあります。意図通りに伝わっていることもあれば、伝えたいと思っていた重点ポイントに反応している子どもが少なかったり。長年続けている仕事ですが、日々勉強ですね」

民放と違い、ここでのプロデューサーはほぼ全員がディレクター経験者。ディレクターとしての視点を持ちながら、企画のみならず、構成や演出にまでかかわることができる良さがあるという。

表現欲の強さ

何もないところからフォーマットを考え、新しい番組を作り上げる。その創造力はどこから湧いてくるのだろうか。
「"表現欲"と言えばいいんでしょうか。何か伝えたいという思いがとても強くて、子どものころは映画を作ったりしていました」

梶原さんは3人兄妹の末っ子。小学生のころは、2人の兄とともに、よく8ミリで映画を撮っていたという。「亡くなった父がカメラ好きだったこと。テクニカルなことは兄たちがリードしてくれたこと。恵まれていましたね」

小学1年のころだった。父親が葉山の海で、当時珍しかった水中カメラで写真撮影するのを見て、動画も撮ってみたくなった梶原さん。「『8ミリカメラをビニール袋に入れて、水が入らないようにすれば、水中でも撮れるの?』と父に聞いたら、『論理的には撮れるよ』と言うので、3・4年生だった兄たちと一緒に、実際にやってみようということになって」

入念に封をした梶原さん。その甲斐あって水は入らなかったものの、なぜか8ミリカメラは壊れ、修理に出しても直らなかった。「現像が上がってきたフィルムにも何も写っていなくて、惨めでした。浮ついた"実験"でカメラを壊しただけなんだと」

しかし、父親は幼き梶原さんを叱らなかった。ただ、母親がこう言った。「叱られなかったことの意味を考えなさい」
「父は母に、新しいことを思いつき、自分なりに準備をして失敗したのだから、叱るより励ましたいと言ったそうです」

父親の思いに気付いて、胸がいっぱいになったと梶原さんは当時を思い出す。

好機を逃さず

スタジオ内の様子。スタジオ内の様子。右手前の女性がディレクター。

将来は大学で働きたいと思い、大学・大学院と、非言語的なコミュニケーションを学んでいた梶原さんだったが、博士課程の受験の前に、ふと「もしかして普通の就職試験を受けられる最後のチャンス!?」と気付いた。
「宝くじのつもりで急遽、放送局を2つだけ受けることにしました。受かるはずがないけれど、万が一受かったら、テレビ番組を作るのもいいな、と思って」

時はまさにバブル景気のころ。斬新なバラエティー番組で勢いのあった民放キー局と、そしてNHKが「自分にとって怖くない放送局」だったと梶原さん。

結果、民放キー局にも合格したが、NHKへの入局を決める。「教育番組を作りたい」。それが梶原さんの希望だった。