キャリア教育ヒントボックス

誰も行かない道を行く反逆と挑戦のマイ・ウェイ
(株)光岡自動車 会長
光岡 進(みつおか・すすむ)さん

少年の日に手に入れた発動機の響き。その憧れをそのままに走り続けてきた自分だけの道。その道はいつしか、ホンダに続く日本で10番目の自動車メーカーを生み出すことにつながっていた。自分たちにしか作れない、そんな1台を今日も生み出し続けるオンリーワン企業の、創業者の生き方とは。

遠かった
起業への道

発売を間近にした新開発のオリジナルカー『大蛇(オロチ)』を熱く語る光岡さん

発売を間近にした新開発のオリジナルカー『大蛇(オロチ)』を熱く語る光岡さん。その情熱は乗り物ともの作りを志した少年の日そのままだ。

気まぐれな秋雨模様の中、富山市の光岡自動車を訪ねた。本社は富山市の中心部に位置するが、創業者であり現在は会長を務める光岡進さんのインタビューの場に指定されたのは、神通川沿いの工場地帯に位置する横野工場だった。クルマ作りに賭ける情熱で知られるこの人との出会いの場として、確かにこれ以上ふさわしい場所はないだろう。

工場に到着すると、不意に声が響いた。
「やぁやぁ、いらっしゃい」
そこには、誰あろう光岡会長その人が、重々しい空とは対照的な明るい笑顔で私たちを迎えてくれていたのだ。

初対面のあいさつもそこそこに、本題からぶつけてみる。光岡さんはどうして自動車会社を作ろうと思ったのだろう。
「それはやっぱり乗り物やもの作りが好きだったからだね。自分の好きなものを作れる会社を興したかったんですよ」

今まさに、その夢をかなえた光岡さん。しかしここまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。

父の思い
少年の夢

光岡さんの父親は、大きな書店の番頭だったという。
「今にして思えば、私もその店に勤めるのが自然だったかもしれないね」と話す光岡さんだが、その父には、今も深く感謝していると言う。

「番頭だから、それなりのお給料をもらっていたわけだけれど、その額から見てもずいぶんとたくさん私に小遣いをくれていたんですよ」

少年の日の光岡さんには、どうしても欲しいものがあった。
「模型用の発動機がね、どうしても欲しかった。当時のお金で1200円くらいだったかな。子どもじゃなかなか手が出ない。たくさんもらってた私の小遣いでも300円だったから、4カ月何も買わずに我慢して、それでやっと買えたんだよ。うれしかったねぇ」

ようやく手に入れた夢のエンジン。自らの手の中で動く"発動機"。模型飛行機や船の動力にと、光岡少年はその魅力に夢中になった。
「小遣いを通して、お金の大切さやお金を生かすことについて教えてもらったのかもしれないなぁ」

こうして少年の将来への希望は、次第に「もの作り」という明確な形を結んでいったのだった。

学舎での学び
社会での学び

工場内の生産ラインでは、各種のオリジナルカーが1台1台手作業で生み出されていく

工場内の生産ラインでは、各種のオリジナルカーが1台1台手作業で生み出されていく。

時は流れ、光岡さんは地元の富山工業高校に進学。実習豊富な工業高校での学習は、光岡さんにとって自らの基礎を築くものとなった。「もの作りに生かしたい」目的意識を持って学ぶことの大切さと有効性のたまものだろう。

高校卒業後、光岡さんは大好きな乗り物と職業との接点を考え、自動車販売会社への就職を決めた。
「もの作りという夢はすでに持っていたけど、いきなり自分で自動車会社なんて、どう考えても無理だからね。勉強のつもりで販売会社に入ったんだ。営業なんて絶対にイヤだったんだけど、ズバリ営業に回されちゃってねぇ」と笑う光岡さん。そうして過ごすサラリーマン生活の間に家族ができ、一家の大黒柱としての責任が生まれると、簡単に独立を口にすることもできなくなったという。それでも光岡さんはこう言う。

「営業は嫌いだったけど、勉強になることは多かったよ。クルマの登録で陸運局に通ったことで、法規にも詳しくなった。それに何と言っても、お客さんたちとはいい付き合いをしてきたからね。だからこそ、自分自身が納得できる車を売りたいと思ったんだ」

思うにまかせない状況にあっても、前向きな姿勢を失わなかった光岡さん。だがその転機は思わぬ形で訪れた。

信じられる1台を
届けたい

社会に出ておよそ10年。光岡さんの勤務先で取り扱っていた自動車のメーカーが別メーカーの傘下に入ることになった。その際、取り扱い車種がトラックのみとなり、これまで乗用車のセールスを担当していた光岡さんは、付き合いを重ね、信頼を勝ち取ってきた顧客に売るべきクルマを失ってしまったのだ。

「あれは辛かったね。それでもしばらくは頑張ってみたんだよ。慣れないトラックを売るために夜な夜な運送屋さんを接待したりね。もともと営業好きじゃなかったこともあったし、こりゃもう限界だなと」

事ここに至って、光岡さんはついに独立を決意する。
「これから貧乏するからな。覚悟してくれよ」

そう奥さんに告げたのは、光岡さんが28歳のとき。しかし予想に反して、奥さんも、そして家族もその決意を温かく受け入れてくれたという。

「まだやり直しのきく歳なんだから、やりたいことをやってみろって親にも言われてね。ありがたかったなぁ」と光岡さん。親身に付き合ってきた顧客たちもまた独立の強い支えとなったことは言うまでもない。

折からのマイカー時代到来も追い風となり、光岡さんの会社は右肩上がりの成長を果たしていった。そして独立開業からさらに10年、個人商店を脱して株式会社となり、中古車販売の全国展開など、新たなステップへと歩みを進めていく。