※1995年発行に発行された書籍「株式会社ジャストシステム 『一太郎』を生んだ戦略と文化」
(高橋範夫著:株式会社光栄発行)の内容を抜粋し、一部加筆・修正したものです。
第2回:「太郎」への思い
<<第1回ジャストシステム創業、日本語処理システムの開発へ
浮川はある日、ロジックシステムというハードメーカーの担当者に、もっと日本語入力に力を入れたら、とアドバイスした。
この会社は、日本でシステムをつくって、それを海外に輸出していた。ジャストシステムはそのシステムを日本で売っていたのだが、「こんなに日本語が入らないシステムはどうしようもない」と文句をいっていた。
そこで設計書までつくって、これをこうやってこのようにすれば、日本語入力ができるようになりますよ、どうしてやってくれないんですかと説明すると、担当者はいった。「それだけ細かく理解しているなら、おたくで開発できるでしょう。うちの製品にも装備できる日本語処理システムをつくってくださいよ」
浮川は呆気に取られた。当時、パソコンの基本システム(OS)上で、日本語処理できる技術は、いくつかの大手企業しかもっていなかった。地方の弱小企業の自分たちに、そんなことができるのか半信半疑だった。
家に帰って初子に聞くと、「できるできる」あっさり答えた。浮川は再び唖然とした。初子はOSについてもよく理解していたので、できると思ったのである。
実際、初子はそれほどの困難も感じず、日本語処理システムを作成した。それは現在のかな漢字変換システムのようなものでなく、単漢字で「あ」と入力すると「亜、阿」など、読みに合う漢字が出てきて、それを選ぶというものだった。それでも、キーボードだけで漢字を入力できたので便利だった。
最初のシステムは、こうした単純なものだったが、次のバージョンでは辞書をつけるなどして、次第に熟成していった。
こうして、かなやローマ字で文を入力して、変換キーを押すと、かなと漢字の混じった文章になる、現在の日本語処理(変換)システム(日本語FEP、かな漢字変換システムなど、さまざまな呼び方をされる)に発展していく。
このシステムは、かなを漢字に変換するとき、組み合わせのタイミングで、まったく意味の通じない、おかしな字に変換されることがある。
初子には「日本語は文化として尊重しなければならない」という信念があった。日本語は必ずしも論理的に構築されていないため、システムをつくりあげるには例外処理の連続になる。1つの例外を解決すれば、別の例外が発生する。不自然な変換を減らすために、いたちごっこのような作業を、根気で克服していった。
82年、最初のパソコン用日本語処理システムが完成した。8ビットマイコンで標準のOS、CP/M用のシステムだった。これはKTIS(ケイティス)と名づけられた。この年の10月、東京で開催されたデータショーに発表すると、すごい評判だった。
使いやすいという評価とともに、ジャストシステムという名前が、ソフトメーカーとして注目されるようになった。
当時、日本語ワープロという言葉はワープロ専用機を意味していた。パソコン用の日本語処理システムには、これといったものがなかった。「まだみんな、パソコンで専用機と同じようなことができるとは思っていなかったんでしょうね」専用機が先行した理由を、初子はこう語るが、それがいよいよ具現化しようとしていた。
オーダーメイドのソフトをつくるときに、パソコンを使っていた初子は、オフコンとそんなに変わらないのではないか、という感触をもっていた。「基本ソフトにCP/Mを採用した松下のパソコンには、10メガバイトのハードディスク、コンパイラ、アセンブラがついて、全部パッケージになっていた。ほとんどオフコンと変わらないなと思ったのを覚えている」
浮川は日本語処理、ワープロと、ずっといい続けていた。しかし、オフコンのシステム開発に忙しい初子は、売れるか売れないかわからないワープロソフトの開発には、なかなか取り組めなかった。
浮川が根気よく初子を説得していた頃、力強い助っ人が、まるで自分の仕事を知っていたかのように飛び込んできた。その青年が、福良伴昭である。