キャリア教育ヒントボックス

机上の計算より、まず行動! 果敢な挑戦が幸運の連鎖を呼ぶ
アホウドリの積極的保護に取り組む東邦大学教授
長谷川 博(はせがわ・ひろし)先生

一度は絶滅の危機に瀕した鳥、アホウドリ。その復活に心血を注ぐ人物こそ、「アホウドリ先生」こと長谷川博先生だ。東邦大学理学部教授として教鞭を執る傍ら、アホウドリの積極的保護に取り組んで早29年。長谷川先生がアホウドリと出会って以降、いかにしてその数を増やすべく活動し、アホウドリ完全復活への道を切り開いてきたのかを伺った。

偶然の出会いがアホウドリとの仲人だった

長谷川博先生

「こんなにきれいな鳥が僕らの時代に絶滅せずに済んだ。まだ完全じゃないけれど、復活へと一歩一歩近づいている。僕はその手助けができた。うれしいですね」

長谷川先生はにこやかに、それでいて力強くそう語る。

長谷川先生が生まれたのは、静岡県は安倍郡大河内村(現・静岡市)。茶農家の長男として、自然に囲まれ育った。

「子どものころから鳥好きでした。でも、これほどアホウドリ一筋の人生になるなんて、夢にも思っていませんでした」

当時、周囲の子どもたちの楽しみといえば、「生き物をつかまえて飼うこと」だった。最初は虫を飼い、次に魚を、小学校高学年のころには鳥を飼うようになったと長谷川先生。鳥を友達のように思い、いつしか鳥の研究を志すように。

「でも、鳥の研究で食べてはいけないだろうと。それで昆虫学を専攻したんです」

昆虫なら仕事にもつながりやすい。なぜならそれは、害虫の防除や発生予測など、日本の台所に直結した学問だからだ。

しかし、長谷川先生の大学在学中は、学園紛争の真っ只中。

「昨日まで正しいと言われていたことが、今日になっていきなり覆る。ある意味、度胸がついたんですね」

一度しかない人生を悔いなく。長谷川先生はそう心に決め、大学院へと進み、動物学を専攻して鳥の研究を始めた。

修士課程を修了し、博士課程に進み、動物学に没頭していた1973年5月。まさしく偶然に、長谷川先生のその後を運命づける出会いが訪れる。

しかし、長谷川先生の大学在学中は、学園紛争の真っ只中。

「本当にたまたまだったんですよ。僕はほかの研究室の先生に誘われて会いに行ったくらいですから(笑)」

アホウドリ調査のため来日していた英国人鳥類学者・ティッケル博士との出会い。この偶然の出会いが、長谷川先生の人生を決めたと言っても過言ではない。

アホウドリ受難 禁猟までの悲しい歴史

アホウドリ

羽を広げると約2.4m。実際に目にすると「こんなに大きな鳥が飛んでいるのか」と不思議な感覚にとらわれるという。(写真:長谷川先生)

ここで、国際保護鳥・特別天然記念物である北半球最大の海鳥、アホウドリの歴史についておさらいしておこう。

江戸時代には莫大な個体数を誇っていたアホウドリ。北太平洋のほぼ全域に分布し、主な繁殖地であった鳥島では、鳥柱ができるほどだったと言われる。

翼を広げると約2.4m、体重は6〜7kg。海面近くに生じるわずかな風速差を利用し、ほとんど羽ばたかず、グライダーのように高速で飛ぶ。

しかし、その長くて優美な翼も地上ではあまり役に立たない。飛び立つには5mもの助走を必要とし、外敵の存在を知らず、人間を恐れない。それゆえにたやすく人に捕らえられ、アホウドリなどというありがたくない名前で呼ばれる。

19世紀末、欧米では布団の材料として羽毛の需要が高まり、高値で取引されていた。そんな時代、アホウドリの存在は羽毛業者の格好の標的となってしまう。

鳥島で明治20(1887)年に始まった大量殺戮は、アホウドリを絶滅の危機に陥れた。羽毛採取という名の乱獲が始まってから、1933年に鳥島が禁猟区となるまでの約50年間、殺されたアホウドリの数は500万羽とも1000万羽とも言われる。

貧乏学生の無謀な挑戦 熱烈な恋文が実を結ぶ

長谷川先生が出会ったのは、鳥島に上陸し、アホウドリの調査をしてきたばかりのティッケル博士。アホウドリの置かれた過酷な状況を知っていた長谷川先生は、いつか鳥島に行ってみたいとは思っていたものの、実際にそれを成し遂げてきたばかりの博士から話を聞く機会を得、大いなる刺激を受けた。

「でも、当時は大学院生でお金もなくて。すぐに行動には移せなかったですね」

とは言え、次第に膨らむアホウドリへの関心は抑えられなかった。1974年、長谷川先生は博士に手紙をしたためる。

「手紙を交わす中で『日本で繁殖するアホウドリの研究は日本の鳥類学者の仕事だ』と彼に言われて。確かにそうだな、と」

なんとか鳥島へ渡りアホウドリの調査をしたい。無謀なまでの情熱で準備と下調べを進めた長谷川先生は、小笠原諸島で漁業調査を行う東京都水産試験場大島分場の漁業調査船に同乗させてほしい、そして鳥島に立ち寄ってほしいと、分場長に宛て熱烈なラブレターをつづった。

その熱意が伝わり、分場長は長谷川先生の同乗と鳥島へ立ち寄ることに同意。ついに1976年11月16日、長谷川先生を乗せた漁業調査船「みやこ」は伊豆大島の波浮港を出航。念願の鳥島へ向けて進路をとった。

ひたむきな情熱が多くの人の共感を呼ぶ

ヒナと海でひろったゴミ

愛らしいヒナ(上)。しかし、海に浮かぶプラスチックのゴミが、親鳥を通じてヒナの体内に(下)。海をキレイにすることもアホウドリ保護の一環だ。(写真:長谷川先生)

「船酔いがあんなにツライものだと知っていたら、おそらく鳥島に行こうなんて思わなかったでしょうね(笑)」

うねりが高く、強烈な船酔いに襲われた最初の航海。鳥島まで27時間、ひたすら耐えるほかなかった。が、その目で見たアホウドリの姿は、その船酔いさえ一瞬、忘れさせるほどの美しさだった。

「鳥島が眼前に迫ってきたとき、1羽の大きな白い鳥が海面スレスレに、羽ばたきもせずにスーッと滑るように飛んでいたんです。真っ青な海の上に白い羽がキラキラしてとてもキレイで、目がズームしたように、それは大きく見えました」

残念ながらそのときは島への上陸は叶わなかった。しかし翌年の3月、幸運はめぐりくる。長谷川先生は東京都八丈支庁の鳥島現状調査団への参加が決定。「アホウドリの専門家」として推薦してくれたのは分場長や研究員の人たちだった。

「僕は技術面でも、資金面でも、多くの人に支えられています。一所懸命やっていれば、周りに助けてくれる人はたくさんいるんですね」